南三陸町と周辺地域への祈り

宮城県南三陸町(旧志津川町と歌津町)歌津の出身です。世界中の皆さんからのご支援に感謝です。本吉町・気仙沼市ゆかりの方、宮城県内・他県の皆さんも一緒に頑張りましょう!

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仮設住宅の入居に関してのニュース記事です。

南三陸町以外のニュースもぜひご覧ください。

地域のコミュニティを維持しつつ仮設住宅に入りたいというのは多くの方の要望ではありますが、現実的に用地が足りないという市町村が多いようです。

面積が足りないのではなく私有地を使えば間に合うのに、私有地に仮設住宅を建てるためには県や国に申請しなければならない(買い上げてくれれば解決と思うんですが)というジレンマがあります。

南三陸町でも私有地を使ってほしいと申し出た方がいますし、他の町では自分は仮設住宅に申し込まず、これから戻って来る人のためにお寺に頼んで敷地内に仮設を建てさせてもらい、行政にもその許可をもらって、という方がいるのをニュースで見ました。

そして仮設住宅に入る前に避難所の再編、それ以前に町外避難やもともとの地区から離れた避難所へ身を寄せていたりで、地域住民が1ヶ所にいるわけではないということも、たくさんの方に知っていただきたいです。


・東日本大震災 仮設用地、住民が確保 「地域守りたい」(毎日新聞 5月22日)

避難住民が要望 全世帯同じ仮設住宅に 南三陸・平成の森(河北新報社 2011年05月16日)


・東日本大震災:南三陸町で仮設住宅入居始まる(毎日新聞 2011年5月9日)


・東日本大震災:住民3分の1が町外へ 中心部壊滅の大槌町(毎日新聞 2011年5月21日)


・東日本大震災:70代女性2人 仮設で「離れたくない」(毎日新聞 2011年5月3日)


※ニュース記事は一定期間を過ぎると消えてしまいますので、控えを下のほうにある「続きを読む」に保存しておきます。ケータイの方もこちらが見やすいと思います。
(いつまで取っておくかは未定です。)



■東日本大震災 仮設用地、住民が確保 「地域守りたい」毎日新聞 5月22日(日)


東日本大震災の津波で壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町は、地元住民が確保した用地に建設する仮設住宅790戸について、地元住民優先で入居してもらうことを決めた。「すべてを奪われたあの町で、やり直したい」。コミュニティー崩壊を食い止めようと奔走した住民らが、行政を動かした。

南三陸町は震災発生から約1カ月後、73人の行政区長らに「仮設住宅は1900戸余り必要だが、公有地は1000戸分しかない。残りの住民は隣の登米市に移ってもらうしかない」と説明した。

 しかし、中瀬町行政区長の佐藤徳郎さん(59)は「それではいけない」と思った。長男和徳さん(30)の「地域の人がバラバラになれば阪神大震災の孤独死の二の舞いになってしまうべ」という言葉にも突き動かされ、「自分たちで仮設住宅用地を確保しよう」と行動を始めた。

 佐藤さんたちが住む南三陸町志津川中瀬町には、197世帯603人が暮らしていたが、震災で30人余りが死亡・行方不明となり、住民たちは七つの避難所に分散。現在は42世帯110人が登米市の旧小学校校舎に2次避難しているが、他は県外の親類宅などで散り散りに生活している。

 「町に戻りたい」という住民の思いは強い。旧校舎暮らしの約10世帯は志津川地区の仮設住宅に当選したが、中瀬町からは離れるため全員辞退したほどだ。

 佐藤さんは他の区長らと仮設住宅用地探しを始めた。「土地さ使わせてくれねえべか」。中には「先祖も喜ぶ」と仮設住宅38戸分の農地約60アールを無償提供した人もいた。

 「民有地活用については国も県も駄目だと言っている」の一点張りだった南三陸町も、佐藤さんらの情熱にほだされ、次第に軟化。父親を震災で亡くした西条彰・建設課長は「町民の願いに応えるのが役所の務め。生活していた場所に戻ってこそ暮らしも仕事も再建できる」と語る。県も民有地活用を認可した。

 佐藤さんは町全体の復興に思いを巡らせる。「これからが本番。子どもや孫に誇れる安全な町を残していがねば」【中尾卓英】

(ニュース記事には写真が掲載され「自分たちの手で仮設住宅用地の確保をした佐藤徳郎さん=宮城県登米市東和町で、中尾卓英撮影」とあります)

■避難住民が要望 全世帯同じ仮設住宅に 南三陸・平成の森(河北新報社 2011年05月16日)

宮城県南三陸町歌津の平成の森避難所(67世帯191人)の住民は15日、平成の森に建設される仮設住宅への避難住民全世帯での入居を求める要望書を町へ提出した。
 避難所自治会の及川均会長(63)が同町志津川沼田の町総合体育館を訪れ、佐藤仁町長に要望書を手渡した。
 要望書では同仮設住宅への全世帯入居を要望、「今後行われる別の仮設住宅の抽選会で当選しても全員がキャンセルする」とした。
 佐藤町長は「地元に残りたいという住民感情は理解するが、やむなく町外の仮設住宅へ行く人もいる。個別の避難所の要望に応えるのは難しい」と回答を保留した。
 及川会長は「コミュニティー維持のためには全員が同じ場所へ移ることが重要だ。仮設住宅での生活は長期間におよび、周囲の手助けが再起への力になる」と話した。
 町は仮設住宅への入居について乳幼児や要介護者などの優先入居を除いて抽選で決めている。
 平成の森には246戸の仮設住宅が建設される。7日に150戸分の抽選が行われたが、平成の森避難所からの当選は17世帯にとどまった。同避難所では14日の世帯主会議で全世帯入居の要望書提出を決めた。


■東日本大震災:南三陸町で仮設住宅入居始まる(毎日新聞 2011年5月9日)

東日本大震災で壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町で9日、仮設住宅への入居が始まった。10日には公立小中学校の始業式がある。住民の多くが家族や自宅、仕事を失うなかで生活再建に向けた一歩を踏み出した。

 同町では津波で1173人が死亡・行方不明になり、約3900戸の民家が流された。仮設住宅は、同町戸倉の「県志津川自然の家」敷地内の81戸で、冷蔵庫や洗濯機などを備えている。

 被災者らは鍵を受け取った後、衣類や台所用品などを搬入。「やっど畳の部屋さ寝られる」「友達がいっぱいいたらいいな」と話し、笑顔を見せた。

 津波で自宅を失った三浦徳義さん(47)は母かつ子さん(72)、妻芳子さん(46)、町立戸倉小6年の長女智香さん(11)の3人と入居した。長男の辰徳君(当時13歳)は町立戸倉中の生徒で唯一、津波の犠牲になった。

 三浦さんは「建築制限にかかり元の地域に家を建てられないのは歯がゆい。地域住民と集落の再建を考えたい」と語った。

 町によると、計1850戸の仮設住宅が必要だという。1000戸分の公有地を確保しており、残る敷地を海岸近くの民有地で賄おうと、地権者らとの交渉を続けている。【中尾卓英】

(ニュース記事には写真が掲載され「すべてをなくしたが、集落のみんなと一緒に復興したい」と話す三浦徳義さん(中央)と家族=宮城県南三陸町戸倉で2011年5月9日午後1時29分ごろ、中尾卓英撮影とあります)


■東日本大震災:住民3分の1が町外へ 中心部壊滅の大槌町(毎日新聞 2011年5月21日)


東日本大震災で約1700人が死亡・行方不明となった岩手県大槌町が、残った町民1万4000人余りのうち約5000人の所在をつかめていない。被災後に町を出たとみられる。現在は町内で避難生活を送る約600世帯も、隣の釜石市の仮設住宅に入居を申し込んだ。なかなか進まない復興や長びく避難所生活にいらだちを見せる住民は多く、商店主らは「このままでは町に人がいなくなる」と心配する。【町田結子、黒田阿紗子、山口知】

 大槌町の平野公三総務課長(54)によると、町が所在を把握できている町民は9000~1万人で、残り約5000人が不明。「町に届け出ずに町外や県外に出た人が多いと思われる」という。

 国土地理院によると、町は津波で市街地の58%が浸水し、役場を含む中心部が壊滅状態になった。町職員136人のうち、加藤宏暉(こうき)町長(当時69歳)を含む32人が死亡・行方不明になり、被災者への対応が遅れた。家屋の7割超が倒壊し、仮設住宅のニーズは高いのに、入居申請の受け付けが始まったのは4月25日。隣の釜石市では震災5日後の3月16日に受け付けを始めていた。

 「一日でも早く仮設住宅に入って落ち着きたかったから、釜石市に応募しました」。津波で大槌町安渡(あんど)の自宅を流された東梅(とうばい)睦子さん(65)は言う。職場が釜石市内にある大槌町小枕の建築業、三浦秀靖(しゅうせい)さん(30)も「両親は大槌を離れたくないと言うが、(家の)再建は無理。4月8日に釜石市の仮設住宅に申し込んだ」。大槌町安渡で避難生活を送るタンカー船員、後藤伸輔さん(46)は家族3人で盛岡市内のアパートに移る。海に出たら数カ月は戻らないため「住居が定まらなければ、家族が心配で仕事に出られない」という。

 釜石市の不動産会社「東北土地開発」には震災直後から賃貸物件の問い合わせが相次いでいるが、担当者は「釜石と大槌の人が半々ぐらいの印象」と話す。東梅(とうばい)政昭副町長(66)は20日、「(町外に)行くな、とも言えないが、こちらでも頑張っているから、町内の仮設に入ってもらいたい」と訴えた。

 住民の町外流出に、地元商店主らの危機感は強い。町では津波が来なかった場所にプレハブの共同店舗を建設する計画が進んでおり、約110軒が参加を希望している。大槌商工会の菊池良一会長(62)は「(物が)ないない尽くしなら、もっと町民が出て行ってしまう。『大槌はまだまだ大丈夫』と示すためにも、早く店を出したい」と話している。


■東日本大震災:70代女性2人 仮設で「離れたくない」(毎日新聞 2011年5月3日)

岩手県山田町の避難所に身を寄せる2人の女性が「もう姉妹のようには暮らせないかもしれない」と、仮設住宅への入居に不安を募らせている。2人は70代。津波で自宅が押し流されるまで互いの家を行き来し、肩を寄せ合って生きてきた。ところが、この町の地形では集落単位での入居は難しく、抽選の結果次第では離ればなれになる可能性がある。【平川哲也】

 4月29日、避難先の学校体育館。仮設住宅の申込受付票を手に、皆野川(みなのかわ)美喜さん(70)は、つぶやいた。「あの時、拾ってもらわねば、今の自分はない。少しでも近くにいて恩返ししたい」。涙がほおをつたった。

 9年前の冬の夕暮れ。JR陸中山田駅(同町)のホームだった。皆野川さんは夫の振る舞いに耐えかね、離別の覚悟を胸に、着の身着のまま家を飛び出した。

 ぽつんとたたずむホームに、山田湾の波音がした。心は押しつぶされそうだった。「どうかしたの?」。掛けられた声の先に、見ず知らずの女性の笑顔があった。川崎スミさん(76)だった。

 ぽつりぽつりと身の上を打ち明けると、川崎さんはこう持ち掛けてくれた。「私も独り身なの。寂しいから、泊まりに来ない?」。離婚を経験し、子どもたちもとうに独立したと話した。どこか似た境遇の2人だった。

 それからの約3カ月、川崎さんとの暮らしは夢のようだった。料理をつくり合い、枕を並べて眠った。「血のつながりはないけど、姉妹みたいね」。そう言って笑う川崎さん宅のそばに家を借りた。

 3月11日、穏やかだった暮らしが一変した。強い揺れに、川崎さんが皆野川さん宅に駆けつけ、玄関をたたいた。皆野川さんは、右腎臓を摘出した川崎さんの体をおもんぱかり、足取りを合わせて高台を目指した。

 石段に足がかかった時だった。「早く!」。きびすを返し、2人の背後からこう叫んでくれた女性の車に飛び乗った。間もなく津波が襲い、一帯をすべてのみ込んだ。

 出会ったばかりのころのように、布団を並べて寝る避難所で、皆野川さんは川崎さんの体を気遣う。代わりに配給品を受け取ったり、散歩に誘ったり。

 でも、いつまで一緒にいられるのか--。皆野川さんは話す。「自炊して温かいものを一緒に食べたい。離れたくねんだ。まだ恩返しが足らねえもの」

 厚生労働省は被災6県に仮設住宅について通知し、「コミュニティー単位での入居方法」を検討するよう求めた。4月28日現在、2813人が避難している山田町は32カ所に2000戸弱を建てる予定だが、建設に適した高台は町内には少ない。町の担当者は「1カ所にまとめて建てるのは難しく、国の感覚は現場からはほど遠い」と嘆く。

 被災から間もなく2カ月がたつが、仮設入居の抽選の日取りはまだ決まらない。皆野川さんと川崎さんは2人がこれからどうなるのか、気をもんでいる。

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