南三陸町と周辺地域への祈り

宮城県南三陸町(旧志津川町と歌津町)歌津の出身です。世界中の皆さんからのご支援に感謝です。本吉町・気仙沼市ゆかりの方、宮城県内・他県の皆さんも一緒に頑張りましょう!

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石碑関連 の参考となる新聞記事等の保管ページです。
長いので「続き」の下に折りたたみます。

石碑に関する誤解について、私が書いたものはこちらです。



<東日本大震災>チリ津波も被災 「みんな一緒じゃないと」
毎日新聞 3月22日(火)18時49分配信

 宮城県南三陸町の首藤米子さん(78)は1960年のチリ地震、そして今回、東日本大震災と2度の大津波に襲われ「家も何もかもなくした」。今回は、近隣の伊藤フクコさん(80)と三浦みえ子さん(82)の3人で自宅裏の崖を夢中でよじ登り、生き延びた。津波の怖さは身に染みている。それでも町を離れることにためらいを感じている。

 こたつに入り、孫に贈る巾着を縫っていた時に激しい揺れに襲われた。茶だんすが背中に倒れてきたが、痛みを感じるより前に家を飛び出した。「津波が来る」。半世紀前の経験で高台に逃げようとした。家から出てきた伊藤さんと三浦さんに「こっちさ行った方が早いから」と自宅裏の崖に向かい、数十メートルの高台を目指した。

 首藤さんは、崖の手前で座り込んでしまった伊藤さんを懸命に励ました。「私の手につかまって。大丈夫だから」。コンクリートで塗り固めた崖にしがみつき、首藤さんは2人の腕をつかんで引き上げた。

 「ここまで来れば大丈夫」。チリ地震津波の経験を生かして設置された、4階ほどの高さがある避難場所にたどり着いた時だ。見下ろすと、屋根の上に若い男性が手を振って助けを求めているのが見えた。チリ地震津波後に造られた高さ約8メートルの防波堤を大波が越えていた。「波が山みたいに立ち上がっている」

 さらに上を目指した。「上がれ! 上がれ!」。首藤さんは2人の腰を押し上げて登った。振り返ると海水は「一歩後ろまで来ていた」という。

 高台に住んでいる知人を頼り、同じように避難してきた約30人で身を寄せ合った。余震で一睡もできなかった。夜明けの町は見渡す限り「何もなかった」。

 50年以上前に結婚し南三陸町に移り住んだ。チリ地震津波で自宅が流された跡には水道管1本しか残らなかった。「苦労して建てた家がまたもってかれた。もういやだね」。落胆は大きい。

 今は町の避難所で暮らし、時には雑談に笑顔を見せる。仙台にいる長男夫婦が同居を勧めてくれる。

 2度も自宅を失ったけれど、町への愛着、人とのつながりは失ってはいない。「みんな一緒じゃないと……」。首藤さんはそう言うと、隣の女性にいたわるように話しかけた。【垂水友里香】



東日本大震災:命かけ防災無線「早く逃げて」 宮城・南三陸、不明の町職員・遠藤さん
(毎日新聞 2011年3月14日 東京朝刊)

 東日本大震災の発生から3日目の13日、明らかになりつつある被害状況は拡大の一途をたどり、死者が1万人単位に及ぶとの見方も出てきた。難航する救出作業、あふれる避難所、行き届かない食料や物資。福島第1原発1号機の爆発事故で、新たに約8万人の住民が避難を余儀なくされ、想像を絶する巨大地震に襲われた被災地は、大きな不安や疲労に包まれた夜を迎えた。

 「早く逃げてください」--。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。

 「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。

 難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。

 遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。

 地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。

 芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。

 芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」

 高台から見下ろす街は濁流にのみ込まれていた。【比嘉洋】



【東日本大震災】「ここで生きる」始まるインフラ整備、立ち上がる住民 宮城・南三陸町(SankeiBiz 2011.3.18)

道路に積もった瓦礫(がれき)を重機が持ち上げ、自衛隊のトラックが避難所へ救援物資を運び込む。大津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町では主要道がほぼ復旧するなど、徐々にインフラ整備が始まりつつある。「めげてばかりはいられない」。自らも家屋を失い、間一髪で助かった佐藤仁町長(59)を確かな槌音を感じている。

 紺色の防災着は被災時に海水に浸かってからそのままで、いまだ潮の香りが抜けていない。佐藤町長は被災したとき、3階建ての防災総合センターで仕事をしていた。屋上に避難したが、大波が襲ってきた。金属製の階段の手すりにつかまり、濁流に逆らった。津波が引くと、町は壊滅していた。町役場は海に流され、高台の総合体育館に災害対策本部を立ち上げた。

 約5500世帯のうち約8割の家屋が壊滅。数千人が行方不明になっているとみられるが、戸籍台帳が流出して確認が難航している。復興作業を担う職員も約300人のうち40人の安否が不明で、家族が見つからない職員もいる。

 それでも、「われわれはここで生活していかなければならない」という。佐藤町長は町の建設業協会や自衛隊と協議を始め、分散した避難所をつなげる道路の復旧に努めている。道路舗装用の石が次々とトラックで届けられ、震災から1週間で主要道路の約8割は通行可能となった。救援物資も各避難所に回り始めている。

 この復旧作業を支えたのは地元建設業者のボランティアたちだ。瓦礫除去を行う佐藤光勝さん(43)は「業者は使えるブルドーザーやトラックをすべて出して、朝から必死に作業している」と話す。

一部の携帯電話についても電波が入り始めた。自宅が被災した避難所のボランティア、阿部絵美さん(28)は店長を務める携帯電話ショップから充電器20台を運び込み、無料で充電サービスを開始。「人々の不便を少しでも解消したい」と話す。

 佐藤町長は「可能なことは自分たちでやろうという意識が被災者の間で芽生えた。役場としても非常にありがたい」。先が見えない険しい復興への道のりだが、町は確実に前進を始めている。(高久清史、岡嶋大城)


【現場から】「高所移転」集落救う 岩手・大船渡(@S・静岡新聞 3/20)
岩手県南東部の大船渡市。重要港湾を擁する港町は、高さ15メートルを超す津波にのまれ、一面がれきの街と化していた。中心街から北東に約14キロ。同じ海岸近くにもかかわらず、津波の難を逃れた集落があった。
 「明治の大津波をきっかけに、集団で高い土地に移転したんだ」。大船渡消防署の元三陸分署長の木村正継さん(64)が教えてくれた。「高さ7メートルの防波堤も幅30メートルの松林もみんな流された。でも集落は無事だった」
 アワビやホタテの養殖で知られる同市三陸町吉浜の集落は、1896年の明治三陸津波で住民の2割が津波にさらわれ、壊滅状態になった。復興に際し、「また必ず大津波が来る」と確信していた当時の村長らが、高台への集落移転を強く推進した。
 「高所移転」が奏功して、1933年の昭和三陸津波では、死者・行方不明者は住民の1割にとどまった。国と岩手県も低利融資制度を設けて本腰を入れ、当時、海岸沿いにあった周辺20町村の2200戸を対象に大規模な高所移転を図った。
 吉浜では今や440戸のほとんどが、吉浜湾を臨む標高20メートル以上の高台に立っている。今まで集落があった土地は、ほとんどが水田に変わった。東日本大震災の津波は標高20メートルの所まで迫ったが、わずかに低い土地にあった3戸が津波にすくわれただけだったという。
 漁師が先祖代々の土地を離れるのは、かなりの覚悟が必要だったに違いない。行政も、住民の説得、移転先の道路や水道管の整備に大苦労したという。「本当にありがたいことだよ」。泥の海と化したよその集落の惨状を思い浮かべながら、柏崎美智子さん(65)がつぶやいた。当時の人々の英断と努力が、115年後に子孫の命を救った。
 沼津市でも、市南部の津波対策として高所移転の構想が持ち上がったことがある。2002年、市が庁内検討部会を設けて実現を模索した。議員の関心も高かった。ところが、津波対策を目的とした宅地造成は、開発許可の対象外だった。
 市は県に許可基準の緩和を働きかけたが、見直しには至らなかった。「規制の壁に加えて、費用負担の面からも住民の合意形成が難しかった」(市消防本部の担当者)という。地元住民や市議の一部は、まだ実現を諦めていない。
 津波防災に詳しい静岡大防災総合センターの牛山素行准教授は「高所移転の効果が高いことは明らかだが、現存する建物を動かすことは極めて困難だろう」と指摘する。その上で、「でも、この(東日本大震災の)惨状を見て、何かが変わってほしいと思っている」と胸の内を明かした。
 木村さんは言う。「何十億円も掛けて大きな防波堤を造るより、もし小さな集落で土地さえあれば、孫子のために少しずつでも高い土地に移転していった方がいいさ」
 世代を超えて津波と闘い続ける三陸の人々。後世の命を守りたい―といういちずな思いが、あくなき闘いの原動力になっている。

(社会部・鈴木誠之)


東日本大震災 防潮堤「油断あった」 宮古市田老 岩手(2011.3.17 02:16 産経ニュース)

過去の教訓超えた津波

 東日本大震災では岩手県宮古市田老地区(旧田老町)も津波で壊滅的な被害を受けた。田老地区は明治29年以来3度も津波の被害を受けた。昭和8年の三陸地震津波を教訓に日本でもトップクラスの防潮堤を備えた。だが今回の津波はその防潮堤を越えて地区を破壊した。避難した人たちは「防潮堤があるので油断があった」と話している。

 鳥井隆さん(81)は、今回の地震で2度目の津波を経験した。しかし、三陸地震津波のときは4歳で、ほとんど覚えていない。

 鳥井さんは「防潮堤を造ったからと油断して逃げなかった人もいた。過去の教訓を今回の津波は超えてしまった」と悔やんだ。

 美容室を経営する大下和子さん(65)は、お客さんにパーマをかけている最中、津波警報のサイレンを聞いて逃げた。「若いころから『何も持たず、高いところへ逃げろ』と言われてきた。お客さんの髪を途中に逃がして、言われてきた通りにした」という。

 しかし、津波の到達は予想より早かった。「地震が起きてから30分ぐらいは逃げる余裕があると思っていたのに、あっという間に津波が来た」と振り返る。

 田老地区の人口は約4000人。大半は高齢者だ。夜間に襲った三陸地震津波に比べれば逃げやすい時間帯だったが、若い人たちは外に出ていて、家にいた高齢者が逃げる間もなく津波に流された。

 ある70代の女性は「年を取った母と2人暮らしの息子さんが『おふくろを(家に)おいてきた。おれは馬鹿だ』と叫んでいた姿を見た」と話す。その息子によれば、体の不自由な母親は「また(津波は)3メートルぐらいだから、上がっているから」と2階に上がった直後に家ごと流されたという。

 宮古市の15日午後2時現在の死者は157人、うち田老地区の死者は20人。市全体では1658人が行方不明。市の人口のおよそ4人に1人、8836人が避難している。 (原圭介)

 田老地区の津波 明治29年6月15日の明治三陸地震津波では、岩手県内で2万1千人を超える死者が出て、そのうち田老町(村)では1859人の犠牲が出た。昭和8年の三陸地震津波では死者・行方不明者911人。このときの津波の後、全国からの義援金や村の借財などを防潮堤の建設に充て、昭和54年、長さ2433メートル、高さ10メートルの日本でも指折りの規模を誇る防潮堤が完成した。


迫る津波は想定以上 「危ない」リーダー機転60人救う (アサヒ・コム 2011年3月24日8時52分)


東日本大震災で津波に襲われた宮城県七ケ浜町で、自主防災組織のリーダーの機転が60人の命を救った。県の想定を超す大津波の到来をラジオで知り、指定の避難場所から住民をさらに高所に避難させ、危機を脱した。

 「先生、本当に先生のおかげだぁ」

 七ケ浜町花渕浜地区の自主防災組織リーダー、鈴木享さん(57)は、震災後に再会した東北学院大の宮城豊彦教授を抱きしめた。

 鈴木さんら住民は、町内に住む宮城さんの指導で避難場所を決めるなど、防災に取り組んできた。宮城さんは津波防災の研究で知られる。

 高齢者の多い集落では、地震後の長い移動が難しい。だから、避難場所は県が想定する最大の3.3メートルの津波からようやく逃れられる近所の寺にした。11日の地震後、住民は寺の駐車場に集まった。

 じっとラジオに耳を澄ませていた鈴木さんは、他の地域に到達した津波が「5メートル」と知り、耳を疑った。

 「県の想定に比べて大きすぎる。これじゃ危ない」

 宮城さんと勉強してきた津波のことが頭に浮かび、急いで移動を決断。高齢者を近くの幼稚園のバスに乗せ、集まった仲間に移動を呼びかけた。30分かけて数百メートル離れた高台に60人を移した。

 「その途端、避難場所の寺が津波にのまれた」と鈴木さんは振り返る。

 津波から1週間後、避難所で人々の生活を支える鈴木さんを訪ね、宮城さんは言った。

 「結果的に、適切な避難場所を伝えられなかったことは申し訳ない。でも、学んだ知識を生かし、みんなを救ってくれた。素晴らしかった」(長野剛)



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